世田谷区
世田谷八幡宮
土俵
同社の土俵は正面の鳥居をくぐり右手の弁天池から一段上に上がった高台にある。
由緒によれば、平安時代の寛治5年(1091年)、源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地にて豪雨に遭い、先に進めず天気快復を待つため10日余り滞在を余儀なくされた。義家は、「今回の戦勝は日頃、守り神として信仰していた八幡大神様のご加護」と感謝し、宇佐八幡宮のご分霊をお招き申し上げ、この地で勧請報賽のお祭りを執り行ったという。この際、兵士に奉祝相撲を取らせたと伝えられる。
世田谷八幡宮の奉納相撲は江戸時代には江戸三相撲と呼ばれ、現在でも、9月の例祭の折に近隣の東京農大の相撲部員による奉納相撲が行われている。土俵を囲むように斜面には観客席が設けられ、神事によって厳粛に浄められた土俵で繰り広げられる力士達の熱戦に、詰め掛けた大勢の観客からは盛んに声援や拍手が送られる。
由緒によれば、平安時代の寛治5年(1091年)、源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地にて豪雨に遭い、先に進めず天気快復を待つため10日余り滞在を余儀なくされた。義家は、「今回の戦勝は日頃、守り神として信仰していた八幡大神様のご加護」と感謝し、宇佐八幡宮のご分霊をお招き申し上げ、この地で勧請報賽のお祭りを執り行ったという。この際、兵士に奉祝相撲を取らせたと伝えられる。
世田谷八幡宮の奉納相撲は江戸時代には江戸三相撲と呼ばれ、現在でも、9月の例祭の折に近隣の東京農大の相撲部員による奉納相撲が行われている。土俵を囲むように斜面には観客席が設けられ、神事によって厳粛に浄められた土俵で繰り広げられる力士達の熱戦に、詰め掛けた大勢の観客からは盛んに声援や拍手が送られる。
世田谷八幡宮について
ご創建は源義家公の勧請とされる。また、神社旧蔵の棟札によれば、室町時代の天文15年(1546年)、世田谷城主・吉良頼康が社殿を修築造営し、その後、吉良家の祈願所とされ、神職も家老職に列なる大場氏が執り行ってきた。明治維新後の明治5年に郷社宇佐神社という社名となり、旧世田谷村および羽根木一帯が氏子地域と定められたが、終戦後の昭和27年、古い文献に基づき社名は元来の世田谷八幡宮に戻された。
【鎮座地】東京都世田谷区宮坂1-26-3
(令和5年6月寄稿)
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