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神社Q&A
神社と神道について、皆さまのご質問にお答えしています。

神社神道の歴史

神道(しんとう)という言葉はいつ頃から使われているのですか
 『日本書紀』の第三十一代用明天皇の条に、「天皇信仏法尊神道」(天皇は仏法を信じ、神道を尊びたもう)とあり、これがわが国の文献上での初出です。
 神道は日本民族の間に自然に生まれ育った、伝統的な神祇(じんぎ)信仰ですから、これに対する固有の呼称はなかったようですが、欽明天皇の御時に伝来した仏法に対比して、神道と表現することにより区別したのでしょう。
 ところで、中国では『易経(えききょう)』に神道という言葉が用いられていますが、こちらの方は日本と違って霊妙なる道という意味のようです。 また、「後漢書(ごかんしょ)」では、墓に通ずる道の意味で使われています。

神社の始まりは何ですか
 神さまをお祀(まつ)りする所は古代からありました。しかし、最初から現在のような社殿があったわけではありません。
 古代、大本や巨岩あるいは山などは、神さまが降りられる場所、鎮座(ちんざ)される場所と考えられていました。そして、それらの周辺は神聖なる場所とされました。やがて、そこには臨時の祭場を設けるようになり、さらに風雨をしのぐためといった理由などから、建物が設けられていきました。そして、中国の寺院建築などの影響も受けながら、今日のような神社の形態になったのです。

上古の神社はどんな形をしていたのですか
 言い伝えの域を出ませんが、『古事記』『日本書紀』によれば、神武(じんむ)天皇の東征後、数代の天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神鏡を皇居の中に祀(まつ)っていました。つまり、皇居が神宮であったことになります。そして、第十代崇神(すじん)天皇朝に初めて天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り、皇居と神宮を分離させました。さらに、『古事記』では同朝期に「天神地祇(てんしんちぎ)の社を定め奉る」と記されていて、そのことから天神を祀る天社(あまつやしろ)と国神を祀る国社(くにつやしろ)が定められたことがわかります。
 神社の原形は、神さまが降臨すると考えられた木や岩の所に仮設された建築物と考えられますが、時代の進展とともに次第に「やしろ」「みや」などと呼ばれる常設の社殿が造られました。
 もちろん、それには集団組織が必要であり、力のある豪族などが自分たちの氏神(うじがみ)を祀るために造ったと考えられます。最も力のあった天皇の社として、神宮が最初期に社殿を整えたのは当然のことといえるでしょう。

奈良時代の神社はどのような様子でしたか
 奈良時代に入る頃には、律令神祇制度(りつりょうじんぎせいど)も確立し、さらに養老律令が制定され、後代の規範ともなりました。中央には神祇官が置かれ、国家祭祀と神社行政を取り扱い、制度上「祭」と「政(まつりごと)」は区別されました。
 諸国の神社のうち、国家神として認められた神社には、祈年祭のとき朝廷から幣帛(へいはく)が奉られることになっていましたが、この奉幣にあずかる神社を「官社(かんしゃ)」といい、それを記上た神名帳(じんみょうちょう)(官社帳)を神祇官が保管しました。
 大化改新後、仏教はますます隆盛し、神道(しんとう)にしだいに接近してきました。 そして諸国の神社に付属する寺院を設け、そこに僧侶を置き「神宮寺(じんぐうじ)」としました。伊勢神宮の大神宮寺を始め、次々に建立されました。神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進んできたとはいえ、まだ神が主で仏が従だったといえます。
 また、有力な神社(御祭神)には、朝廷から神階(しんかい)が与えられたのもこの頃からです。

平安時代の神社の特徴を教えてください
 この時代になると、神仏習合(しんぶつしゅうごう)はますます進み、初めのうちは神が主で仏が従であったのが、そのうちに僧侶が支配的となり、立場は逆になっていきました。今度は仏を守るために、寺院の境内に鎮守(鎮守)の神が祀られるようになりました。
 平安初期に集成された『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう)(官社帳(かんしゃちょう))には、官社として認定されていた神社が二八六一社(三一三二座)記されています。ここに記された神社を「式内社(しきないしゃ)」(これ以外を式外社(しきげしゃ))といいます。国家的祭祀(さいし)の際、神祇官(じんぎかん)より幣帛(へいはく)が奉られる神社が官社すなわち式内社ですが、中央の神祇官が遠方の官社まで出向くのが何かと大変であるという理由のため、『延喜式』制定の折りに神祇官が直接奉幣する「官幣社(かんぺいしゃ)」と、国司が奉幣する「国幣社(こくへいしゃ)」に分けました。そしてさらに「大社」と「小社」に分けられています。
 またこれらとは別に、十世紀初めより十一世紀初めまで、朝廷は特に尊崇する「二十二社」を選んで殊遇しました。伊勢神宮を始め、式外社の石清水(いわしみず)八幡宮なども含まれています。
 また、この他に一種の社格(しゃかく)として、国内で最上位の地位を占めた神社に「一の宮」、次に「二の宮」、その次には「三の宮」という呼称がつけられました。これは、国司が任国の国内の神社へ奉幣する際の順番にもほぼ対応していたことから、これが呼称の由来ではないかとも考えられています。それから、巡拝をするかわりに、同府近くの一つの場所に諸神をまとめて合祀(ごうし)し、「総社(そうしゃ)」としました。
 平安初期頃までの人々の神社信仰は、各々の土地の氏神(うじがみ)信仰が主流でしたが、中期頃からは、霊威ある神々が地域を越えて祀られる勧請(かんじょう)型信仰が盛んになりました。そして稲荷(いなり)・八幡(はちまん)・天神(てんじん)・伊勢(神明(しんめい))などの各社が方々に勧請をされるようになったのです。 これについては、平安京などの住民の多くが新住民で、地縁血縁関係が少なく、霊威神・流行神を受け入れやすかったことにもよると考えられます。

鎌倉時代から室町時代へと神社はどのように変化しましたか
 鎌倉幕府の基本法である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の初め(第一条)に「神社を修理し祭祀(さいし)を専らにすべき事」とあるように、幕府は神仏を保護しました。 そして寺社奉行(じしゃぶぎょう)を設置し、社寺関係の事務に専従させました。源氏の氏神である鶴岡八幡宮(石清水(いわしみず)八幡宮より勧請(かんじょう))は幕府の守護社に位置づけられ、そこに奉行人を置いて神社事務にあたらせています。このことから幕府と神社の関係の深さがうかがえます。
 やがて、南北朝期、国家の統一力は失われ、社寺を保護することもできず、官社(かんしゃ)への奉幣もままならず、荒廃する神社も多かったようです。 室町幕府の社寺関係制度は、鎌倉幕府のそれを踏襲したものでしたが、社寺の事務の複雑化に伴って、神社の事務をつかさどる社家奉行(しゃけぶぎょう)と寺の事務をつかさどる寺家奉行(じげぶぎょう)が置かれました。一般庶民の神社信仰は盛んで、伊勢講や熊野講などの有名神社の「講」組搬がいくつもできたのはこの時期です。

安土桃山時代の神社の状況を説明してください
 織田信長、豊臣秀吉の両氏共、戦国時代以来窮乏した社寺を保護しました。しかし信長の延暦寺(えんりゃくじ)焼き討ち(日吉(ひえ)神社も焼かれた)に見られるように、両氏とも兵力を持って政治干渉する社寺に対しては容赦なく弾圧しました。また柴田勝家は秋田地方の社寺に刀狩(かたながり)を命じています。一方信長は伊勢神宮の造営費を寄進してもいます。 社寺への信仰と社寺の政治干渉の排除は、この時期以降の武家政治の特徴のようです。
 信長は検地(けんち)を行いましたが、秀吉も天下統一後直(ただ)ちに、信長より厳しく検地(大閤(たいこう)検地)を行いました。いかなる社寺領も全て検地竿入(さおい)れし、領地没収の上、朱印状(しゅいんじょう)による石高(こくだか)をもって、これを全国の社寺に寄進しました。
 短い時代ですが、両氏の確立した集中的封建体制は、社寺政策においても、次の徳川幕府の基礎となっています。